僕にとって写真とは、アウトプットじゃなくてインプットかもしれない。

僕らの仕事では言葉や絵、そうした企画を生み出したり吐き出したりすることをアウトプットという。特にクリエイティブなアイデアとか思考を形にして表に出す時なんかに頻繁に使う言葉かな。そういう意味ではじぶんで撮った写真なんかもアウトプットといえるわけだけど、僕はもしかして写真ないしカメラで撮ることはインプットという要素のほうが強いんじゃないかと最近感じている。それはたぶん僕が撮る写真が特に誰か第三者に見せるために撮っているというわけではなく、じぶんが心地よく感じるために撮っているということが大きいように思う。たしかにこうしてブログにしたり、そのブログのサムネイルをTwitterに連携したり、日々のスナップをInstagramにストックしたりはしている。でも、それ自身も誰かに僕の写真を大々的に見てもらうことが目的というよりは、ひそかに見てもらってる、もしくは僕の写真と道ですれ違ってもらっている、そんな感覚だ。そして何より、写真を撮ることで得られる気づきや発見は実に多い。自然の営みや光と影の明暗、色の混ざり合う様子、そして街や人々が構成するダイナミズムのようなもの、ほんといつも新鮮な世界がファインダーの向こう側にあり、写真を撮るたびに心地よい感覚をつぎつぎと浴びている気がする。そう考えるとカメラで撮る写真とはアウトプットとインプットの両方を一度に体験できるような素晴らしさを持ち合わせてるなと。いい写真とか上手い写真とかそういうことももちろん大事だけど、職業で撮るプロではない僕らには、カメラを、写真をより好きになる心地よさが何より大切だし、撮る人と撮られる人の関係の気持ちよさこそが「写真がもたらす共感力」の最たるものなんじゃないかなと。というわけで、あと数時間で週末の入り口がやってくる。アウトプットとインプットが交錯するなんとも素敵な時間だ。

空シャッターの音を聴きながら、週末を待つたのしみ。

金曜日の朝、一度だけ空シャッターを切って自室のケースにしまい、いま仕事場へ向かっている。今週のはじめにわが家へやってきたライカはまだフィルムも入れておらず、試し撮りは明日からの週末がはじめてとなる。

そもそもライカのフィルムの装填も、お店で一応は習ったのだけど、操作方法も含めて自宅でネット記事を見ながらゆっくりやろうと思い、まだフィルムは入れていないままだ。とすると、そっかと、空シャッターを切ってシャッター音はたのしめるなと、はたと気がついた。僕はこれまでフィルムをすべて撮り終わるとすぐに新しいフィルムを入れていたから、いわゆる空シャッターを切って音や感触を味あうということを思いつかなかった。でも、近ごろ読んだライカユーザーの人の本に、しばらくフィルムを入れていない時はフィルム巻き上げ動作と空シャッターを数回切ると機械の維持メンテにもなるし、何よりライカの機械としての精密さを五感で楽しむことができる、みたいなことが書いてあった。そこで、週末までは何度かライカを手に持ち、その手にずしりと馴染む感触や、フィルム巻き上げ動作、繊細なシャッター音なんかを密かに楽しんだ。

ライカの取扱説明を調べると、フィルム交換も日本のフィルムカメラのようには簡単ではないことがわかる。バルナック時代よりは交換しやすくなっているけど、例えば日本のフィルムカメラのように道端で立ったままフィルム交換はむずかしい。少なくともどこかテーブルに腰掛けてゆっくりと行う必要がある。だとすると、ライカ、それもM3時代のものは、一度フィルムを入れたらそれを撮り切るまでで撮影を終える、という使い方になるのかなと。僕が使っているフィルムであれば24枚撮りだから、朝フィルムを入れたら自宅に帰るまでは24枚しか撮らない。でも、だからこそ、一枚一枚を大事に撮る、そんな感覚。

ライカを手にして今のところ思うのは、この「フィルムは撮る前までは装填せずに、ふだんは空シャッターをたのしむ」ということと、「フィルムは基本的に一日に一本までしか撮らない」ということ。試し撮りする前からこんなこと考えてるのもじぶんでも少し呆れているけど、そんな撮らない時間でさえもあれこれ触ったり考えたりできることがライカが愛される理由なのかなと思ったり。きょうは雨の金曜日だけど、明日は晴れるかな。桜がようやく咲いたみたいだから、ライカと初めての散歩カメラができるといいな。いよいよフィルムを入れて。

男性的カメラ、女性的カメラ。

いまの時代に男性的とか女性的とか性別に例えて話すことはナンセンスかもしれないけど、僕の中のひとつの目安というか分かりやすくするための表現例ということで。カメラってまずそのプロダクトの佇まいとして男性的カメラと女性的カメラがある。僕の中ではNikonは男性的、Canonは女性的。僕の持っているカメラで言えばGRは男性的、C35は女性的、M3は男性的かな。で、筆頭にあげたNikonなんだけど、シンプルニコンと呼ばれるNikon FEを持つようになって、そのイメージが逆転し始める。それは、プロダクトのものさしだけじゃなくて撮れ味の印象が加わったから。この写真もそうなんだけど、僕がNikon FEで撮った写真のあがりを見てみると、その色だったり醸し出す空気がなんだか女性的だなと思ったんだ。僕が開放気味で明るめの写真を撮ってしまったからかなとも考えたけど、この写真はF1.8から二段ほど絞って撮ったと思うから、それほどはいわゆるゆるふわ写真なわけでもない。でも、水面の色なんかは瞬間的に”あ、なんか女性的”と思ってしまう。そうやって撮れる写真が女性的と思い始めると、FEというボディそのものも実は女性なんじゃないかと見えてくるから不思議だ。FEはフルマニュアルじゃなくて絞り優先で撮れるから、そういう意味では硬派なカメラじゃないのかもしれないけど、でもボディだけ見たら僕のイメージはずっと男性的に見えていたんだけどね。だからか、Nikon機を持ってる女性はちょっとボーイッシュに見えてカッコいいなとさえ思ってた。でも本当は内面が実は女性的であるNikon機を持ってる女性が素敵に見えていたのかもしれない。といってもFEで撮るのは今はカラーばかり。これがモノクロを撮るようになると印象は男性的にと変わるかもしれないけど、当面はカラーで撮り続けようと考えているから、今は僕にとってはFEを連れ出す時は”デート”という感覚かな。

かたやGRはボディも撮れる写真も僕の中では男性的。ラフでソリッド、時に職人のように緻密な写りを見せるGRの写真は、その歴史からいっても工芸品づくりの匠であったり、デジタル機器のエンジニアのような印象を持ったりする。Leicaもボディに関して言えば同じような印象だけど、まだ試し撮りしていないから、撮れる写真を見ると女性的へと印象が変わるかもしれないけどね。C35はボディも撮れる写真も女性的かな、とにかくチャーミングだ。というわけで、あくまで僕の独断と偏見だけど、カメラを性別で例えてみた。カメラメーカーさんは商品開発の前にターゲットを想定してそもそも男性向けカメラや女性向けカメラを意図的に企画しているとは思うけど、カメラの印象は撮れる写真の質感にも左右されるというお話。こうやってカメラの性別を考えるってことは、カメラってやっぱり人間っぽいからだろうなあとじぶんを考察していたりする。さて、あなたのカメラは例えるなら男性だろうか、女性だろうか。

時間は止まる。カメラがあれば。

と、モノクロの写真を見るといつも思う。もちろん実際はどんなお金持ちにだって時間だけは止めることができない。でもカメラがあれば一人ひとり異なる瞬間の時間を止めることができる。だから、モノクロの写真にはよく目が止まる。じぶんはその場所にいるわけじゃないけど、誰かが撮ってくれた写真によって、その場所の時間が止まった瞬間を疑似体験することができる。写真に地名や年代のキャプションなんか入ってたりすると、より時間が止まったありがたさみたいなものを感じる。写真が美しいかとかカッコいいとかより、その時間の止まった空間に居合わせることができたと思える写真が今は好きかな。

忘れていたものを思い出させてくれるフィルム。

ひとは、そしてぼくはなぜこんなにフィルムで撮る写真に惹かれるのか。それはたぶんいまを撮りつつも、そこに忘れていた何かが写り込むからだと思う。幼い頃に至近距離で見た天然色、永遠にあるんじゃないかと思ったゆっくりとした時間、フリーハンドで描かれたような光景を構成するものたち。フィルムは強く記憶に働きかけるものなんだなと思う。今週も木曜日。もう少しでフィルムカメラを持って森へ行ける。今週末はLeicaを持って。楽しみだ。仕事もう一踏ん張りがんばろう。

街でカメラをかまえる勇気とか平常心みたいなこと。

僕の日々のタイムラインにはたくさんの人たちの撮った街中のスナップ写真が流れてくるし、最近よく読む写真雑誌もいいなと思う写真はストリートスナップだったりする。僕もふだんからRICOH GRを街中で取り出して撮ることはあるんだけど、なかなか人が写り込んだ写真は撮るのがむずかしい。やっぱり撮られる人の気持ちみたいなことを考えちゃうからだろうね。撮るにしても個人が特定できない写真、というのがじぶんの中のボーダーラインになっている。もちろん、撮られた人の許諾をいただけばいいんだろうけど、そこまでは声をかける勇気もないというところ。

でもストリートで街の空気を切り取るみたいな感覚は好きで、28mmのGRでその興味は増したように思う。そうなるとフィルムでも街を撮りたいと思うようになって、最近になってKonica C35を手に入れたんだけど、これがなかなかGRのように街中でサッと撮るというところまではいけていない。それは使いづらいということではなくて、僕の精神性の話なんだけど、まだシャッターを切るまでまごつくからどこかサラリとは撮れないのである。GRだとほとんどノーファインダーで撮れるから街中でもカメラをいかにも構えてるという姿ではなく撮れるところがある。それからすると、C35を持った僕はまだカメラをいかにもかまえちゃうんだよね。

C35はピント=距離だけさわるカメラだから距離感がつかめたらもっと手早くシャッターが切れるんだろうけど、そこまで感覚を自然にするのはもうしばらく時間がかかりそうだ。街中でスナップを撮ってる人たちはどんな風にシャッターを切っているのかは、実はちょっと気になっている。そういえば僕はまわりにスナップをやってる人がいないから、なかなかそういう苦労話とか体験談について話すことがない。Twitterなんかで聞くのもなんか申し訳ないし。こんど中古カメラ屋の店員さんとかに聞いてみようかな。撮るシチュエーションもそうだけど、サッと撮るじぶん流の手法とか聞けると楽しそうだ。というわけでC35や他のフィルムカメラで街をGRのように撮るにはまだまだ時間がかかりそうだ。

 

 

中古カメラ店の店員さんたちのカメラ愛について。

ここ数週間の間にフィルムカメラ購入で中古カメラ店に出入りするようになったんだけど、デジイチしかやっていなかった頃は気に留めていなかった空間が、今ではとても居心地のいい空間になりつつある。まず、あのショーケースの中にさまざまな時代のさまざまなスタイルのカメラが並んでいる様子が、まるでおもちゃ箱のようにまぶしくてたまらない。そして、なんといっても店員さんたちとのやりとりにとてもあたたかい愛を感じる。それはそもそもカメラが大好きなんだろうし、カメラたちをわが子のように可愛く思っている愛情の表れだろう。でも、もっと感じるのは僕のようなフィルムカメラを買い求めようとするお客さんを同志のように気遣ってくれるあたたかさなんだと思う。分からないことを質問した時の回答も、レンズの違いの説明や使い方のアドバイスも、とにかくどれをとってもお客さんと店員さんの関係を超えて愛を注ぎ込んで対応してくれくる。そのカメラ愛みたいなのが異常に心地いい空間を作り出しているんだと思う。故障かなと思ってたC35も扱い方のやさしい手ほどきで解決したし、レンズフィルターもネットで検索して装着する意味をあらためて教えてくれたり、他のお店でも快く紹介してくれたり、とにかく中古カメラをとりまくコミュニティというのはいいよなあ、とつくづく感じる今日この頃なのです。

28mmの目と、50mmの目。

ここ一年間くらいはRICOH GRばかりで写真を撮ってきた。それは28mmの目を持つということでもあった。28mmだけの目(実際はGRでもクロップで35mmや47mmでも撮影可能)になって一年撮り続けて思うのは。たしかに僕の目がスナップっぽい目になっていったこと。実際、街撮りが増えたし、その結果?かもしれないけどモノクロスナップにたどり着いた。そして、背景が余計に写り込むことが楽しくなっていったように思う。じぶんの肉眼で見ている光景の外側まで写り込む写真の新鮮さとでも言えばいいだろうか。

そして、今、再び50mmの目を持とうとしている。フィルムカメラNikon FEを使い始めたからだ。もちろん50mmは初めてではない。デジイチを使っていた頃は50mm/f1.8もよく付けてたし、好きなレンズのひとつだった。でも他にズームレンズやマクロレンズ、超望遠レンズなんかもあったから、今のように50mm一本で撮り続けるということはなかった。今、50mmだけを撮り続けてあらためて思うのは、この画角はなんというか不思議な面を持ち合わせてるなと。というのも、ファインダーの中で見る50mmの広さと、撮れた後に見る50mmの写真の広さが少し違うなあという感覚。50mmは最も人の視界に近い画角と言われるけど、僕の中ではファインダーの中で見る50mmはもう少し広く感じるというか、少し”辺り”みたいなものを感じる。でも、あがってきた写真はもう少し凝縮された密度感のある絵に感じる。この感覚は明らかに28mmとは異なるおもしろさ。今一度、50mmにハマってみたいと思う理由だ。

今週、手に入れたLeica M3も50mmだ。50mmのためのM3ともいえるその存在に惹かれたところもあるのかもしれない。つまり、平日は28mm、週末は50mmが僕のスタイルとなりそうだということ。これがまた僕の写真観にどういう影響を今後及ぼしていくのかは分からないけど、その先にあるものやじぶんが見てみたい。今はそういうワクワクを密かに感じている。さて、あなたにとって50mmとはどういう存在だろうか。

僕らが肉眼で見ている世界の色は本当なんだろうか。

僕の撮る写真にカラーが帰ってきた。ふだんGRで撮る時はモノクロばかりだったんだけど、最近になってRAWで撮るようになり、たまにカメラ内現像でカラーに変換することが増えたし、何よりフィルムカメラで撮ることが増えたおかけだ。

そうして思うのは、僕の肉眼で見た世界の色が正しいのか、それとも写真になった世界の色がが正しいのかということ。厳密に言えば肉眼で見る生々しい色と、僕の撮った写真の色は微妙に異なる。まずモノクロ写真は明らかに現実の世界の色味とは違うし、フィルムカメラで撮った写真もどこかフィルム色で生々しい色合いとは違う。そう、物理的に違うというのはじぶんでも認識してるんだけど、じゃあ加工しているのかというというとそうではなくて、むしろ僕が見た時の光景の色に近づいているというか、実は写真になって現れる色こそが本当の世界を構成している色なんじゃないかと思い始めている。むしろ、僕らが肉眼で見ている色こそが何か加工がなされてあんな風に見えているだけなんじゃないかと。んー、ちょっと難しく聞こえてしまうかもしれないけど、写真の中の色こそがこの世の本当の色なんじゃないかという考察です。で、そうなら素敵だなと。それくらい僕はカメラの中から紡ぎ出される世界の色が好きだ。そして、ひょっとしたらこの世の色はとんでもなくアートな色で、僕らはとんでもなく美しい世界に生きてるんじゃないかと。摩訶不思議だけど、だったらいいな。

コニカC35と撮った空は、想像以上に空だった。

昔はあれだけ空ばかり撮っていたじぶんが、カメラを持つようになってからはどこか空を撮るのが苦手になっていた。それは一眼レフでもGRでもそうだった。理由はわからないけど、目の前にある空の抜けた感じが上手く出せないじぶんがいたんだ。正確にいうと曇り空なんかは撮れた、なんとなく雰囲気ある感じに。それは雲の抑揚が助けてくれていたんだと思う。でも、青空はなかなか上手くいかなかった。ところが久しぶりに空を撮りたいと、連れ出したコニカc35が言った。手に入れて初めての週末の試し撮り、僕はなんとなくc35に導かれてカメラを上に向けた。でも心のどこかで、一眼レフでもGRのエフェクトを使っても上手く撮れないのに、この半世紀前のちっぽけなフィルムカメラで撮れるわけはないと思ってた。ところがきょうあがってきた初めての現像写真には、どこか懐かしいみずみずしい青空が収められていた。うれしかったな。試し撮りでちゃんと撮れることが確認できただけでもうれしかったのに、想像以上にきちんと撮れていて、噂通りのレンズ、ヘキサノンのこれが実力なんだなと思った。あいにく家の近所の散歩カメラによる試し撮りだから街撮りスナップのような写真はないけど、これなら街撮りも楽しそうと期待がむくむくと膨らんできた。C35はピントを合わせるだけのシンプルな操作だけど、だからこそ撮れる写真がある。僕はこのカメラを平日も片時も離さず、GRとともに持ち歩いて僕の日常の目になってもらうつもりだ。シュートする時は一眼レフのNikon FE、そしてフルマニュアルを楽しむ時はレンジファインダーのLeica M3で楽しめたらなと思うけど、街撮りはサッと仕事鞄から取り出して撮れるシンプルなレンジファインダーKonica C35というシーンで異なる使い分けを楽しめたらなと考えている。きょうはC35で3枚ほど街を撮った。C35はあせらず少しずつ撮影枚数を撮りためていって、フィルムを使いきったら現像に出す。そんなゆっくりとした歩幅で付き合っていけたらなと考えている。

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