ひらりのひと。

とある留学生と食事をともにしながらいろいろ話したんだけど、そもそも日本に来ていることもそうなんだけど、居場所を変えるということに実にニュートラルでいるなあとあらためて思った。住む国を変えることも、働く場所を変えることにもまったく大げさな感覚はなくて、いたる所へひらりと飛んでゆく。ほんとうにボーダーのない世界を謳歌しているようなしなやかさ。僕らはネットにふれる毎日でどこかグローバルな感覚になった気がしているけど、ほんとうのグローバルはこういう行動で境界線をひらりひらりと越えてゆくリアリティを言うんだろうね。そんなことを思った。

スマホカメラ的でもあり、一眼レフ的でもある。その落とし所が僕には気持ちいいんだろうな、GR。

ここ数日間、GRのことを聞かれることが多いので、ちょっとRICOH GRを語ってみる。まず”スマホカメラ的”という部分から。GRはご覧の通り、縦横のサイズでいえばスマホと大して変わらない。厚みはあるけど(写真はレンズを出したところだけど、電源をオフにすると凹凸は無くなる)重いとかゴツいという感覚は皆無で、手のひらにしっくり収まる感じがとてもいい。そういう意味ではスマホを持ち歩く感覚とほぼいっしょ。で、スマホカメラと同じように起動したら瞬時に写真が撮れる。その俊敏さは本当にGRのキモかもしれない。しかも、僕の場合はGRで撮る時はスピード重視だから撮影ポジションはP(プログラム)ポジションで、つまり絞りもシャッタースピードもおまかせ状態。シャッターを押すだけだから、そういう意味でもスマホカメラ的に写真が撮れます。

で、”一眼レフ的”でもあるという話。GRはセンサーサイズの大きさが余裕あるもの。一般的なデジカメはボディがコンパクトな分、センサーサイズも小さなものが多い。でもGRは一眼レフの入門機〜ミドル機に搭載されているAPS-Cサイズのセンサーを積んでいる。つまり、一眼レフのようなボケのある写真が撮れる余裕がある。僕にはこれが重要で、以前使っていた一眼レフの描写が好きだったし、それこそがスマホカメラでは得られなかったカメラならではの楽しさだったから、カメラをGRだけにしてからも存分にボケのある写真を楽しんでいる。ボケを楽しむ時は撮影ポジションを絞り優先モードにして、絞り開放(F2.8)、ピントをひと押しでマクロオンにするだけ。これだけの切り替えでスマホカメラ的楽しみから一眼レフ的楽しみまで、GR一台で存分に写真を楽しむことができます。

あと、僕が重宝しているのは、基本搭載されている数種類のフィルターと、撮影後に写真をすぐにiPhoneに送れる機能。フィルターは僕の場合だと白黒とハイコントラスト白黒の2種類を使うけど、そのほかにもレトロやクロスプロセス、ブリーチパイパスなんかがあって、撮る前にフィルターをセットするからファインダーを覗きながらフィルター越しの写真が確認できる。あとは撮った写真をiPhoneに送る作業だけど、これも簡単。僕のGR(1)はSDカードにEye-Fiカードを利用していて、撮ったその場でiPhoneの専用アプリに写真データを転送できる。いま店頭で売られているGR2ならそもそもWiFi搭載なんでその点ももちろん問題なし。そういう意味ではカメラ初心者の人でもスマホカメラ的に簡単に楽しめるコンデジだと思う。

そのうえでGRが優秀なのは、それだけお手軽にも関わらず、一眼レフ的な味わいの写真を楽しめるということ。手ブレ補正もないし、ズームもない(広角28mm)けど、それはレンズ性能を極めること、シンプルであることを突き詰めたカタチ。”簡単だけど深い”というのが、このGRを持ったらこれ一台でいいんじゃないかと思える万能性だと思う。RICOH GRというとスナップ専用カメラと一般的には思われているけど、きちんと撮ろうと思えば実に精巧な写真が撮れる。景色でも、花でも、ブツ撮りでも。ラフでいて実はすごい実力の持ち主、そんなキャラクターが僕の求めるプロダクト感にもあっていて、そんなこんなで僕は日々をこのGR一台と過ごしている。

こんな感じでどうだろうか。少しはGRとは、みたいなニュアンスが伝わっただろうか。僕はGR好きだからどうしても少し贔屓目に紹介してしまうところがあるので、もしGR購入を検討している人はもう少し客観的に比較検討したほうがいいかもしれないけど、これだけは言えるのは、これだけ熟成を重ねてたどり着いた性能のカメラはそうそう無いということ。僕はもう一台、サブ機にGRを購入しようとしてるくらいだから。

迷子をたのしむ。

この場合の”迷子”とはじぶんのことである。未完成といってもいいし、不透明という解釈でもいい。とにかく、正確なじぶんの今の立ち位置も行く先も分からない感じ。その先の角を曲がった先に何があるのかも分からないのだけど、それはそれで分かりきった道筋を辿るよりはおもしろそうじゃないかと。そういう迷子。

旅がいいよ、というのなんてのは、迷子になってみようよ、ということなんだろうな。勝手の知ったところをうろうろ何回転もするんじゃなくて、じぶんなんて一生行くことないんだろうなという道を少し無理やりに、でも気分はいたってラフにぐいぐい足を踏み入れてゆく感じ。そう、あの感じ。初めて聴く音楽と、初めて行く道と、初めて嗅ぐ匂いみたいなもの。最近、導かれるんだよな、そういうものや気配に。悪くないよ、この感覚。

撮ってから考える。

そもそも僕は何事においても「まずやってみる。やってから考える」というところがある。そんなポリシーみたいな大そうなものではなくて、やってみないと分からないし、やりながらのほうが見えてくることが多いから、僕の場合。

写真もその流れなのかどうかはアレだけど、RICOH GRにしてからは、目の前に何か撮りたい物体が出現したらとにかく撮る、みたいなところがある。「撮ってから考える」。一眼レフの頃はさすがにそうはいかなかったから、ある程度は考えてから撮ってたと思うけど、起動が俊敏なGRならこの少々乱暴な「撮ってから考える」というのはかなり現実的だ。

そうして撮った写真をわりとすぐさまiPhoneに移して、そして見る、そしてようやくその意味みたいなものを考える。それをさらに飛び越えて、撮ったらInstagramにまずアップして、その写真を見ながら考えることさえあるくらい。写真をちゃんとやってる人からするとなんだか怒られそうだけど、僕の今のカメラ、写真との距離感はそんな感じだ。「撮ってから考える」。

じぶんらしくいられることを。

けっこう長く生きてきたほうのにんげんとしていま思うのは、結局のところ、いちばんじぶんらしくいられることに一途でいいと思うよ、ということ。仕事にしても、趣味にしても、聴く音楽も、観る映画も、読む本も、世間の流行りとか、まわりの人からの見え方とかまったく気にする必要ないし、そんな時間はまわり道であって、無駄ではないけど、たどり着くところじぶんらしい道をできるだけ長い時間掘ってったほうがいい。時間というのは意外と正確じゃなくて歳とともに本当に加速してくから。世の中、何がいちばんセンセーショナルで驚きかというと、僕はじぶんというにんげんの化学反応というか、こんなじぶんがいたんだという発見だと思う、近ごろ本当に。いろいろとじぶんを深掘ってみて、え、こんなところにたどり着くんだオレ、みたいなことを追っかけることこそ人生なんじゃないかと最近本当に思ってる。もうちょいはやく気がつけばよかったなあとも思うけど、まあそれも含めてじぶんというにんげんの発見であり出会いだから、そこからスパートをかけるということで。さて、次は何にたどり着くだろう、じぶんらしくいられること。

みんなほんと写真好きなんだな。言葉より伝わってくる。

ブログをポストしたついでにTwitterをのぞいてみたら、週末、みんな思い思いに写真をアップしていて、それはもうほんとに「みんな写真好きなんだなあ」というオーラがひたひたと伝わってくる。今日のカメラチョイスを紹介するひと、カメラ仲間とランチするひと、ひとり集中して一週間ぶりの撮影を楽しむひと、実にいろいろなわけだけど、僕のブログ用アカウントは写真好きなひとをフォローしているアカウントでもあるから、ひたすら写真好きカメラ好きのひとの写真が怒涛のごとく流れてくる。Twitterはやっぱりたくさんのひとをフォローしたほうが楽しめるSNSだなとあらためて思う。

僕がフォローしているひとたちはほとんどがアマチュアのひとだと認識しているけど、プロかどうかの境界線が写真でお金を得るということじゃなかったとしたら、それはそれはプロのような集中加減のひとがたくさんいる。所有している機材もすごいし、被写体探しも相当の労力が感じ取れる人もいて、実に精力的だ。かたや、日常を実にさらりとリアルに洒落た感じで撮られるひともいる。僕はどちらかというと後者のスライスオブライフのような写真が好きだけど、それはもうほんとに個人の思い思いのスタイルでよくて、そのひとの写真を撮る気分とか情景が思い浮かぶ写真が僕は強い写真だと思っている。そうして日々刺激をもらって僕もまたGRで目の前の空気を記憶する。おもしろいよね、写真って。その楽しみかたは文字通り無限大だ。

一週間の中でインターバルトレーニングしてみる。

連日のトレーニングは疲労しつつも心地いいんだけど、特にいま集中トレしているスイムに関していうと、毎日泳ぐより隔日で泳ぐくらいのペースの方がスイムの効率があがることに気がついてきた。やっぱり筋肉は疲労するわけで、からだのしなやかな伸びを必要とするスイムの場合、どれだけからだがリラックスして水面に浮かんでいられるかが進み具合に影響する。12月にスイムを始めてから週5ペースくらいで泳いできたけど、息継ぎや2ビートキックを含めてある程度コツみたいなものを会得できてきたから、そろそろ週3〜4ペースにしていこうかなと。とはいえ、昨夜のブログにも書いたのだけど、プールというのは異常に依存症要素があって、単にトレーニングという観点だけで回数を絞れるほど冷静にはなれなくて、気がついたら泳ぎたくてたまらないじぶんがいたりする。体力と欲望のバランスとりがここにきてうれしい課題になってきたなというところ。

それでも一週間にリズムがつくれているのはいいことだなと思っていて、スイムトレ中にインターバルをとるように、一週間というコース/距離/時間をインターバルを考えながら進む感じはとてもサイクルを刻む行為としては心地よい。冬の間はスイムを仕上げていって、暖かくなり始めたらバイク、ランをプラスしてゆく。また時間のやりくりが大変そうだけど、トライアスリートの人たちはいわばこの時間のやりくりがビジネスにも直結してオンオフが好回転しているらしい。スイム、バイク、ラン、なんだか有酸素運動依存症のようにもなってきたけど、からだがしゃんとしてると不思議と仕事脳やカメラ脳、音楽や映画、読書なんかもインプットがしなやかになってくる気がしてるから、やっぱりにんげんのからだというのは多種多様なバランスをとることで整えられているのだろうと思う。

そういえばスイムの時はカメラ禁止だから撮影量も減るかなと思ってたんだけど、日中立ち止まってGRを構えることが心なしか増えた気がする。何かを増やせば何かが削られるんじゃなくて、むしろバランスを取ろうと他のことも充実してくるようなところがあるよね。それもまた発見。というわけで夜のスイムに向けて心の準備をしている土曜日の午後。こころもからだもしなやかに、泳ぐように維持していきたい。

近ごろはモノクロ依存症だったりプール依存症だったり。

今夜もプールに出動して、僕はいよいよプール依存症というやつだなと自覚し始めている。プール依存症なんて言葉があることは知らなかったんだけど、昨日たまたま職場の同僚に「イン・ザ・プール」という小説を教えてもらって、読んでみたら、あ、これオレだ、なんてね笑。でも依存症って言葉はもっとネガティヴなイメージあったけど、プール依存症って聞くといやいやそんな悪い言葉じゃないなって。興味がある人はKindle版もあるのでぜひ。

依存症といえば、近ごろはモノクロ依存症でもある。ひょんなことから元旦の日に今年はモノクロでいこうと決めてからずっと懲りずにモノクロばかりをGRで撮り続けてるんだけど、そうなると他の人が撮った写真もモノクロばかりが目にとまるようになって、挙げ句の果てにはムービーなんかもモノクロのものばかりが目にとまるようになって、あ、これは、じぶんモノクロ依存症だって笑。

でもアレなんだなあ、僕の場合は依存症くらいにならないとソレのことが理解できないような不器用なところがあるんで、結局依存症期間の大小はあれど、そうなっちゃうんだよなあ。そんなじぶんが嫌いではないけど笑。

カメラを持ち歩くっていいよね。理屈抜きにいい。

今日はまた一段と冷え込んでいる。じっとしていると骨から凍るような感覚がするから少しジタバタする。あ、そうだ、GRで撮ろうと。

カメラがいつも鞄の中にあるのは、それほど特別なことじゃないけどどこか豊かであることは間違いない。光とか造形とか空気感とかわずかに感じるイレギュラーな様子をシャッターを通して記憶する。数枚写真を撮れば、その後にその写真の具合を確認するちょっとした豊かな時間が訪れる。僕の場合は撮ったらGRからiPhoneに転送するから、iPhoneのカメラロールを遡りながら少し昔に撮った写真なんかも眺めつつ、しばし時空を超える束の間の時間を楽しめる。そしてまた歩き出し、そしてまた立ち止まり撮る、見る。

カメラは何台か所有してきたけど、今の僕のカメラのものさしは「外に連れ出しやすいかどうか」と「シンプルに付き合えるかどうか」。その点、RICOH GRはすべてに合致している。こういう、じぶんに合った一台と巡り会えるとカメラのある日常は呼吸が楽になるというか豊かになるよね。僕とカメラのほどよい、心地よい距離感だ。

静かなインパクトを好む。

分かりやすいインパクトよりも、どこかじんわり主張してくるインパクトが好きだ。それは若い頃から変わらない。ちょっと偏屈というか、他人と同じものは嫌というか、少し直球からズレているものに惹かれる。理由はじぶんでもよく分からない。とはいえメジャーで流行りの音楽なんかにも反応するから別に意固地になっているわけでもないんだけど、でもまあ気がつくと少しズレたところを歩いてきた人生のように思う。あの頃からずっと反抗期のままなのかな。なんか表通りじゃなくて路地裏を撮りに行きたくなったな。僕にはそっちのほうがお似合いのようだ。