片手でヒュンヒュン撮る、GR。

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そういうじぶんを少し客観視すると、D750で撮っていた頃の僕はずいぶんと構えすぎていたのかもしれない。この場合の構えるとは、カメラをがっちり固めて撮ることでもあり、写真とはこうあるべきという意識みたいなもの。それがGRだけになってラフ過ぎるくらい。定規を使って線を描いていたひとが、フリーハンドでヒュンヒュンと線を引き始めたとでもいえばいいだろうか。とにかく自由なんだ、僕とGRは。D750のファインダーの中の濃密な光景も大好きだったけど、少しそのファインダーの中であーだこーだ言ってた僕がいたかもしれない。良い悪いじゃなくて、GRはカメラの前の光景がすべてだ。しかも、その光景の凄さを撮りたいというより、その場の空気感をヒュンヒュンとブックマークしてゆく感じ。そういえばソニーの初めて買ったサイバーショットは”日常をブックマークする”みたいなコピーだったっけ。ずいぶんとライトなカメラだったけど、それと比べるとGRは写真を撮っているという手応えもしっかりあって、その絶妙のバランスがGRの真骨頂かもしれない。花をマクロで狙うようなことはすっかりなくなったけど、いまふたたびカメラの楽しさを味わっている。

過去の写真を整理していると、こころの整理にもなる。

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僕は写真はすべてJPEGだからわりと手軽にスマホやクラウド上に置いている過去写真をいつでも見ることができる。で、ブログを書く時は過去写真をさかのぼって眺めることが結構あるんだけど、その都度その時の思いとかシチュエーションを思い出したりして、あたまやこころの整理になることが多い。そうしてその当時のことを思い出すわけだからあたまの中に記憶としては保管されてるんだろうけど、こうして過去写真を眺めたりしないとなかなか自然には思い出さない。そういう意味ではiPhoneでいつでもアノ頃に行けるのはいいことだなと思う。この写真は秋桜だから去年の秋かな。GRで撮ったもの。ほとんどノーファインダー気味での撮影だと思う。Twitterのタイムラインはまだまだ紫陽花が真っ盛りだけど、だったら季節外れの花の写真も気分転換になるかなと。この乱れた撮り具合はきっとRunの途中の一枚かな。年数とか季節とかパッと記憶の瞬間移動できる。写真を撮るということは記憶を行き来できるようにすることでもあるんだよね。通りで楽しいはずだ。

おとなの夏は一瞬だからね。

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子どもの頃は早くおとなになりたくてたまらなかった。勉強がとにかく嫌いだったもんなあ笑。まあそれはともかく、おとなになって社会に出てからはそれなりにじぶんの望む時間を手に入れて不満があるわけじゃないんだけど、いちばんしまったなあと思うもののひとつに”あの長い長い夏休みがない”ということなんだ。いやほんと大袈裟ではなく。この差は大きい。

ことしのカレンダーでいうと夏休みは何日だろ。まあ三、四日というところだろうか。子どもの頃の十分の一だからね。あの子どもの頃、夏休みに突入してあ〜長い休みだなあとあくびをしてたら最初の一週間で、いやそれよりもさらに短い時間でおとなの夏休みは終わっちゃうんだから、それはそれはたまらない。世の中のおとなたちが40日間の夏休みをとれたらどんなになるんだろうね、この国は。豊かになるのか、それとも日本が回らなくなるのか。それはともかく、おとなの夏は一瞬だから、僕らおとなは夏を300%濃密に楽しむんだという気概でのぞむ必要があるし、学生のひとたちはいまだけの特権であるこの永遠のように感じる夏休みを全身で浴びまくってほしいと思う。いや、決して大袈裟ではなく、僕は心の底からそう思うんだ。

カメラがなかったら出会っていない光景がいくつもあるだろう、きっと。

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いくつもとかそんなレベルじゃないか、無限大くらいか。毎日生きていたら日々恐ろしい数の光景と僕らは接しているわけだけど、ショッピングスポットや飲食店でもないかぎり僕らが街中で足を止めて光景をマジマジと眺めることはそうない。でも実は何度も足を止めるに値する光景が数多くある。ただ僕らの頭の中がそういうアンテナを張っていないなら、すべてはただの道になる。いや、道ということを意識する概念すらない。ところがカメラを持ち始めるとその概念は変わる。無意識に頭の中が行く先々で写真に収めたいシーンを探し始める。少し大袈裟にいえば、いつものありふれた光景がまったく違って見え始めるとでも言おうか。そしてそこに偶然性が重なる。ひとだったりモノだったり光だったり影だったりが混じり合って、もう二度と撮れないような光景が現れる。心の中で軽くガッツポーズするくらいの光景なわけだけど、見えるのはおそらくカメラを持っているひとだけで、そういう意味ではカメラを持っているひとはそうでないひととは異なる世界が見えているんだよね。モノクロで切り取ると、より見えないものが見えてくる感覚が強い。モノ・ゴトの見方や角度を変えてみると思うなら、何も非日常の場所まで遠く旅立つ必要はない。カメラを持てばいい。それだけ。そうすると辺り一面僕らは奇跡の中に生きていることを悟る。カメラとはそれまで使っていない意識を目覚めさせるスイッチだ。

ひとは必要とされていると気がついたら強いよね。

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近ごろの若者は強くないみたいなことを言いがちだけど、いやいや僕が若かった頃より全然しっかりしてるし、少なくとも夢見る夢男くんや夢子ちゃんは少なくてみんな堅実だし我慢強いなと僕は思ってる。なかなかじぶんからは弱音を吐いたりSOSを出さないというかね。だから、まわりがポジティブなこともネガティヴなことも引き出してやらないといけない時代。それが承認欲求が強い時代とか言われるんだろうね。だったらどんどん承認してあげたらいいと思う。なぜあなたが必要なのか、あなたにしてほしいか。それは褒め言葉というよりは、あなたが必要なことをきっちり理詰めで説いてあげることなんで、過度に褒めすぎることとは違う。存在を認めてあげる。これに敵う方法は無いんじゃないかと最近すごく感じている。アメでもない、ムチでもない、あなたが必要な理由を説いてあげる。今日も何人かの子の気持ちが持ち上がるのを見た。そして、それが僕のエネルギーにもなる。世の中なかなか捨てたもんじゃない。

何色とも言えない色彩が好き。

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日本らしいのか、それともアジアらしいのか、何度見ても惹かれる赤。というか赤なんだろうか。赤褐色、茶褐色、ん、褐色ってなんだろうとか、色は文字通り色々頭の中をかけめぐる。そういえば、僕は少し天邪鬼というか人と同じは嫌というか、小さいころから少しひねりの効いた色が好きだった。山吹色、群青色とかそういう色。他にもあったと思うけど忘れちゃったな。でもとにかく人が使うであろう普通の色が好きではなかった。幼いながらの自己主張だったのかな、いま思うと。それが10代後半あたりになると原色が好きになっていった。赤、青、黄色、オレンジ、黒、そういうソリッドな色たち。アメリカン・カジュアルへの憧れかなあ、アメ車とか煙草とかロックとかカリフォルニアとか(行ったことないけど)そういうモノたちが青春の証だった。そういう原色の青春を経て今は、そうだなあ、少し幼かった頃へ回帰しているかもしれない。絵の具箱の中のあまり人が使わない色、それは派手さからいえば脇役みたいな色なのかもしれないけど、僕の中では自然に溶け込む色であり天然色のような色、そういうのが好きになってるかなあ、再び。見た目の自己主張の強さより、まわりを生かす色や引き立てる美みたいなものが好きになってるんだろうな。旅に出たくなってきたな。そういう何色とも言えない色彩を撮る旅へ。

未だ #アンプラアート の解釈は分かっていないんだけども。眠る。

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何がきっかけで #アンプラアート のタグを気にしたり付けたりするようになったかは覚えていないんだけど。気にし始めてからはたまにTwitterでタグ検索したりしていて、そうやって他の人のアンプラアートであろう写真を見ているとさらに解釈の仕方がわからなくなるという、何とも不思議でつかみどころのないタグワードなのである、僕にはね。それでもこうやって寝る前にじぶんが思う #アンプラアート な写真をツイートして眠るのが最近の僕のルーチンだったりする。要は綺麗とか美しいとかそういうものとはベクトルからして違う、なんだかザラッとした、どうかすると心落ち着かない一枚をアップしてるから僕の中では何かしらのルールだったり線引きがあるんだろう。このままずっと正解はわからない気がしているけど、わかりたくもないという希望もある。写真に説明やこうあるべしという単語は無用、ということかな。少しザワザワする気分できょうも眠る。

カメラは何でもいいとも言えるし、何でもよくないとも言える。

少なくともカメラやレンズが撮るわけじゃなくて、撮り手が撮りたい場所を見つけ、タイミングを見計らい、露出やピント、水平なんかを見て撮るわけだから、写真とはやっぱり撮影者次第なんだろう。とはいえ、性能の優れたカメラやレンズ、もしくは世界観の異なるであろう機材があれば”もっといい写真が撮れるんじゃないか”と思うのも至極当然で、これも写真をやっていれば当然思うところ。つまり、この議論には”いい写真とは何か”と同じくらい答えのない永遠のテーマというかサガと言うか、そういうところがある。

なんでこんなことを改めて思ったかというと、さっき移動時間にKindleで田中長徳さんが書いた本「カメラは知的な遊びである」と「カメラは私的な遊びである」を読んだからである。カメラを始めた頃に買ったものだけど、いつもKindleの中に入ってるからこうして空き時間ができると再読していて、その割にいつも気づきみたいなものが出てきて不思議な本だとも言える。長徳さん曰く、一眼レフのフラッグシップ機の性能を最大限引きだせてる人なんてプロにもいないし、性能面だけでいえば必要ない的なことを書かれていてなかなか痛快な本なんだけど、長徳さんは仕事でどうしても要求されない限りはRAWでも撮らないでいつもJPEG、しかもいつもラージサイズでノーマルでしか撮らないと決めているらしい。それでもB0に引き伸ばしてもまったく問題ないといい、そんな素人みたいなセッティングでちゃんとした写真があがるんですか?と半信半疑だったまわりの人も、あら全然いけますなと驚くらしい。まあ、この話はあくまでも長徳さんほどの人がやるから成立する話かもしれないけど。でもまあ、カメラとは何なのかと考えさせられるところはある。

僕の場合だと一眼レフを手放してGRだけにして何か困ったり性能不足を感じているかといえば確かにそんなことはまったくない。じゃあGRが最高のカメラかというと性能面でいえば夜はこの写真のように全然ピントもブレもまあやんちゃに飛んでくれて笑うんだけど、まあ何というかカメラのせいなのか僕の腕のせいなのかそんなことまったく気にならないし、そういう不完全さがじぶんでは気に入った写真の一枚になったりする。長徳さんが書いてたことで印象的だったことのひとつに、新しいレンズを人が手に入れる時っていうのは、それで腕があがる云々よりも、それによってどこか閉塞感のあるじぶんを打開するために買うんだみたいなこと書いていて、あ、そういうとこあるたしかにとか思ったりね。そうやって考えればカメラやレンズなんて何でもいいとも言えるし、いやいやそれによって新しい世界がひらけるという意味では何でもよくないとも言えるし、尽きないよねこの話は。ただ、少し思ったのは、この写真やるなと思った人は大抵何の機材で撮ったみたいなカメラのことは語ってないなあという気はたしかにした。そういうの超越しちゃうんだろうな、本当にハマると。やっぱりカメラとか写真とは深い。僕はまだほんの入口にいる。

カメラを持つようになって待ち時間が退屈じゃなくなった。

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カメラ、僕の場合はRICOH GRを持ち歩くようになって、待ち時間とか約束の時間まで中途半端にある時間が全然苦じゃなくなった。その場で振り向いて辺りを撮ることもあれば、少し歩いて散策カメラをするようなこともある。そういう時にGRというカメラはちょうどいい。一眼レフを構えるほどは目立たず、かといってカメラらしいフォルムでもあるから道行くひとも”あ、写真ね”といい感じで素通りしてくれる。つまり、怪しいひとには見えない笑。でも、スナップ撮る時はこの適度にほったらかしてもらえる存在感が意外と重要だ。そういえばこの前あるひとがツイートで「GRも持って街へ出かけると、よくそのカメラかっこいいですねとかかわいいですねと声をかけられる」と言っていた。その適度な存在感というか、なんか分かるなあ。というわけで今日も頼まれてもいないのにGRを褒める僕。愛してるんだな、GR。

Kindle PaperWhiteがあれば目と心にやさしい。3Gタイプならなお頼もしい。

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Amazonが”Kindle Unlimited”なるサービスを日本でも開始しそうだという記事をちらほら見かける。大方の予想では「毎月定額¥980で55,000冊の本が読み放題」というものだ。これは本好きにはたまらない。あくまでも日本導入は噂だけど、本場米国などではもうサービスは提供されているようだから、価格は分からないけどサービス自体は時間の問題かな。

僕の鞄の中にはいつもGRと一緒にこの黒のKindleも入っている。もう購入して三年くらいだろうか。小説からビジネス書、コミックまで相当の数の本がこの小さな端末の中に収まっている。僕がKindleを気に入ってるのは、まずいつでもどこでも本屋に行かず大抵の本は買えるということ。僕のKindleは3Gタイプだから外出先でWiFiが飛んでいないところでもデータが重いもの(コミックや写真多用の本)以外はダウンロードができる。これはほんと便利だし、外出先で本を検索してレビューを読んだりするだけでもSNSをサーフィンするより断然たのしい。しかもこの3Gは購入時にわずかに高額になるけど、購入後は毎月の利用料は永久無料という太っ腹だ。あと、僕はKindleの中でもいちばんベーシックなPaperWhiteという読書専用端末を使っているけど、この画面がいかにも読書をするための目にやさしいもので助かっている。写真では分かりづらいかもしれないけど画面は白黒でバックライトで発光するタブレットなんかとは違って文字通り”Paper White”の紙の本を読んでいるような質感がある。画面の手触りも紙っぽいところが僕のお気に入りだ。明るさも調整できるし、何より文字の大きさを自由に拡大縮小できるのは近ごろ老眼(笑)な僕にはありがたい。

読書というのはすごくプライベートなことだと思うんだ。昔から読書する時だけは一人きり、絵や映像がないだけに頭の中でビジュアルやシーンをイマジネーションしながら読み進む行為はまさに没頭というやつで、ある種そのワールドの中にトリップするようなところがある。辺りの音も聞こえなくなり、食事を摂ることなんかも忘れて、気がついたら何時間も時計が進んでいるなんてことはいつもだ。そんなプライベート空間の象徴のようなものが本だから、その本棚はまさに書斎的ななんとも愛おしいもの。それもKindleの中ならいつでもどこでもじぶんの書斎をクラウド上で眺められて、いつでもどこでも引っ張り出して読み返すことができる。この行為というのが本好きには実はいちばんたまらない行為なんじゃないかとさえ思う。まあ、人には他人に見られたくない本の一冊や二冊は必ずあるけど、そういう本屋ではちょっと買いづらい本を購入できるというところもKindleが支持されるところかもしれない。そう高額ではない価格にこれだけ本好きがたまらない機能を押し込んでいるからか動作性能だけは後回しになって?この時代のデバイスとしてはかなりもっさりしているが、それも読書という行為であればゆったりしていて苦にはならない。つまり、僕は派手ではないけどKindleにしっかり心奪われているのである。今日もこうして誰にも頼まれていないのにKindleのよさをブログで紹介する。つまりそれがこの商品が成功しているブランドの証である。