できれば風の音を撮りたい、みたいなのはある。

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その風の音を撮るということ自体がどんな状態なのかは分かっていないんだけど。ただ自然を撮りたいというのではなくて、風の音を撮りたいという思いみたいなのが僕の中には少しある。前にも同じようなこと書いたかな。まあでもいつもそれとなく思いながらファインダーの中をのぞいているから、これからもこの話は何度もブログに出てくると思う。そしてたぶん答えはなかなか見つからなくて失敗作を量産するんだろうけど、それもたのしみ。いい風、吹け。

好きなブログは何処に潜んでいるのだろう。

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ある方たちとのやりとりがきっかけで始めた僕のブログ探しの旅なんだけど、実はこれがなかなかむずかしい。そんなのブログランキングサイトに行けばいいじゃないかと言われそうだけど、そういうところもいくつかのぞいてみたんだけど、ちょっと印象が違った。

これはたぶん僕のせいで、僕にとってブログを探しているというのは写真ファンの人のブログを探しているというのではなくて、僕の好きな世界観のブログを探しているということだから、世の中そんなに簡単に価値観や世界観が合う人というのは当たり前だけどなかなかあることじゃないんだなあと。

あと、正確に言うと僕はいい写真を探しているというより、その想いとか思考とか作り手、送り手の企みみたいなことを感じたいと思っているところがあるから、写真関連のブログだけじゃなくてクリエイティブな世界や建築、芸術みたいなところまで本来はブログを探すフィールドが広くて、これもなかなか上手く好きなブログを探せていない背景かもしれない。

好きなブログが見つかったら、そこからいろいろと辿ってみているのだけど、こればかりはコツコツとやるしかないかなあと。何処に潜んでるんだろう、僕の好きなブログ。

「写真を見れば、撮影者がどんなメディアをみているかわかる」か。

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さっきのブログにもすこし触れたんだけど、気になったのでちょっと考えてみた。写真家の小林幹幸さんがTwitterにポストされていた以下のような言葉。なるほどと。

「写真を見ると、撮影者がどんなメディアを見てるかわかります。きちんと芸術写真集を見てる人は作風に筋が通っています。雑誌を購読してる人も少し違う。しかし、ツイッターしかみてない人はツイッター風の写真、face book見てる人もそんな写真。悪いとは言わないがすぐにわかってしまうという話」

おぼろげながら感じていたことを的確にまとめてくださった、そんな気がした。このツイートの前に「Twitterにポストする写真があれば、ぜひコンテストに応募を」と述べられていたので、小林さんなりの写真愛がきっと込められた言葉なんだろうなと思う。僕はコンテストとかにはほんと無縁で、撮った写真は気がつくとSNSにしか展開していない。ある意味、じぶんのアルバムみたいなもので、それを知人や友人に何気に見てもらう感覚がSNSのそれに近いのかな。それで全然いいんだけど、他人に見てほしいと思う気持ち、他人から感想を聞いてみたい気持ちが少なからずあるのなら、発表の場をすこし広げてもいいのかな、と少し思った。

となると、たしかに多くの人にある程度共通して強く届く作風の筋みたいなものが必要になるし、そういうことを目で、体で習得するような今までとは少し違うインプットが必要になるんだろうね。できるかどうかはわからないけど、新しいまなざしをもらったから、ここに記憶して、できれば実戦までいけたらいいと思う。

ただ、僕は気負いのないスライス・オブ・ライフのような写真を見るのも昔から好きで、そんな写真を日々一堂に眺められるものは少なかったんだけど、Twitterのタイムラインにはそういう日常が散りばめられてるなと思う一瞬もよくある。コンテストを審査する人の目線とはまた違った、そういう人たちの目とか声もすごく気になる存在なので、ここから生まれる気づきみたいなものにも、これからも注目していきたいと思っている。

いろいろボケてるけど、それも含めて僕の写真。

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今朝は雨で、いつもの散歩には雨専用カメラでもあるNikon Coolpix P340を連れ出した。葉の雫を撮ろうと思ったけど、なんかまだそういう雰囲気の雨の降りかたじゃない。と、地面を見たらなにやら感じるものがあったから、辺りに一人だけしゃがみこんで、草の中にP340を突っ込んで撮った。あとでよく見るとブレブレのボケボケだったりするんだけど、それもぜんぶひっくるめて僕のいまの気分の写真だから、やっぱり記憶しておこうと、このブログを書いている。

そういえば、ある写真家の方が、Twitterにあげる写真があれば、ぜひ何かコンクールに出したほうがいいと書いてた。写真を見るとふだんどういう本を見ているかもわかるんだって。芸術誌を見ているひと、雑誌を見ているひと、そしてTwitterやFacebookばかりを見ているひと。わかるんだって、その人の写真を見れば。なるほど。その話も記憶する。

Nikonと桜の週末、また来年までのたのしみに。

今週末のタイムラインは満開の桜のオンパレードだったね。まさに「タイムラインお花見」が楽しめた。僕自身も一眼レフを手にして二回目の桜の季節ということもあり、ビギナー3ヶ月だった去年とは少し違った桜との向き合いができたんじゃないかなと思ってる。

去年の今頃はカメラはD5300でレンズは標準ズームの18-140mm、50mm単焦点、買いたての70-300mmだったかな。今年はカメラがD750に変わり、レンズは60mmマクロと24-120mmが加わった。

カメラの神様はいて、桜満開のこの週末は2日間とも一眼レフを持ち出せた。先週末の咲き始めも撮れたから、どうだろう、レンズを換えながら数百枚は撮ったんじゃないかな。マクロの接写も楽しんだけど、やっぱり桜は少し引き気味の絵が美しいと感じたのが今年の収穫かもしれない。

願わくば桜の木の全景と広大な背景の自然が撮れる場所に行きたかったかな。写真家の人たちの桜の写真はやっぱり場所からして豊かだった気がする。あとは、僕はふだんのクセというか好みで絞り開放で撮りまくっていたから、来年は少し絞って桜の美しさを記憶したいと思う。

といっても本当に来年まで桜のシャッターチャンスは来ないから、そう考えると桜の写真を撮るという行為もけっこう儚く厳かなものなのかもしれない。あと何回撮れるのか。そして撮るたびにだんだん上手くなっていくものなのか笑。いろんな意味で桜との向き合いを考えた日曜日の夕刻。なんにしても、ことしも桜よ、ありがとう。また来年、再会できることをたのしみに。

目を閉じたほうが鮮明に浮かびあがるモノ・コトがある。

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いま、森を背にしたベンチに座りながらこのブログを書いている。ふと、目をつぶると無数の鳥たちがツイートしていることに気がつく。そして、しばらく目を閉じたままいると、その鳥たちの声がいくつか種類があり、そのそれぞれの方角や位置がすーっと頭の中にレイアウトされる感じがわかる。

よく、仕事で打ち合わせの時なんかに目を閉じて話を聞いている人がいるけど、最初は寝ていないにしても話を聞いていないんじゃないかとか思ったことあるけど、あれは目を閉じたほうが頭にモノ・コトの意味や背景、交錯の仕方なんかが鮮明に浮かびあがりやすいからなんだろうな、と最近は思う。

視覚はモノ・コトの印象の7割を決定づけるというけど、それはそれで大事だけど、残りの3割の、それは聴覚だったり触覚、臭覚だったりがすごく本質を決定づける気がして重要だよなと思う。僕は全然写真ビギナーなんだけど、「できれば風の音を撮りたい」みたいなところがある。写真だけでは完成しない何かを埋めようとしているのかな。例えば、このブログも。

想い出届け人。

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朝、D750に24-120/f4をつけて外へ出た。ベンチに腰掛けた時は雨粒が少しきたけど、写真の神様は桜の最後を撮らせてくれた。散歩中のみんながiPhoneでまるでプロカメラマンのような姿勢で激写していたり、犬と一緒に桜の天井を見上げたり、それぞれ思い思いの桜のある週末とのお別れ。僕もだけど、たぶんみんな、桜とともに迎えた過去のいろんな想い出を回想してるんだと思う。卒業、別れ、入学、出会い。春はやっぱり転機がいろいろ多いから。じっと眺めてたら数十年くらい前にふわっとトリップできる。そういう花です、桜は。いや、花というより人のような佇まいを持ってるなと、ここ数日、桜を撮りながら思った。それが人々にこれだけ愛される理由なんじゃないかな。また来年やってくる。想い出を携えて。

Instagramでもらったコメント通り、僕もこの一枚が好きだ。

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僕は撮るのも見るのも暗めの写真がやっぱり好きなんだろうな。朝からTwitterとInstagramに数枚の写真をポストしたけど、どれか一枚気に入っているものを選べと言われたら、華のある桜の写真よりこの大地の一枚を選ぶ。理由は…んー、じぶんでもよくわからないんだ、ほんとうに。そもそも、じぶんの写真は他人から見てどんなトーンを持ってどんな印象があるのかも想像つかないし、そんな壮大な自然を撮っているダイナミックな写真でもないから、良いも悪いも言いようがないよなあと。その程度の写真。でも、僕はその程度の、そのへんの日常を形成している小さな自然の世界が好きというか、心惹かれる。不思議だな。日々、なんとなく答えを考えているけど、まだ上手く言葉にできる段階にはない。

そういえば、僕の日々の写真はストックの仕方に少しじぶんルールを与えている。Twitterはリアルタイムに撮った写真を数枚まずポストするところ。そして、同じようにInstagramにもリアルタイムにポストするけど、Twitterと違うのはInstagramはずっとストックするところ。Instagramに数枚の写真をストック(ポスト)したら、大抵Twitterのほうの写真は削除する。別に削除しなくたっていいんじゃないか、と思われるかもしれないけど、僕の場合のTwitterアカウントは『Blog 記憶カメラ』としてのアカウントだから、タイムラインを訪れてくれた人にブログ更新の様子が過去までわかりやすくしたいと思うところがあって、大量の写真はなるべくずっとは置かないようにしている。僕にとってTwitterはストックじゃなくてフロー。どんどんその場その場で「僕の今」がタイムラインにリアルタイムに流れては、しばらくしたら消えてゆく。そんな風に考えている。

とはいえ、Twitterにその瞬間の写真をポストした時の”いいね!やリツイート”は、ポストした写真の反応がわかるし、何より励みになったり、新しい出会いのきっかけをくれる。よかったら、今後もTwitterに写真をポストした時は反応くれるとうれしいです。で、さらにブログの方にも反応もらえたりするともっとうれしかったりします。ぜひ。よろしくです。

5:42am、朝の月はひたすらやさしい。

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いつものように、週末の朝は早く目がさめる。部屋の窓から天気を確認する。と、朝の月のご褒美。ケースからP900を取り出して、撮る。静かに撮る。風の音しかしないからか、消える前の儚さからか、朝の月はただただひたすら、やさしい。

愚痴は時に吐き出していいものだけど、そこから何かが生まれることを期待するものではない。

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これはメモ。誰かに言ってるわけじゃないし、じぶんを戒めるものでもない。ただ、なんだろう、ちょっとブログに記憶しておきたいと思った。そんな一日の締めくくりだった。

愚痴だったり弱音だったりは、心の中に貯め続けるのがいちばんよくないから、時にというか適度に身近な人に吐き出していいと思ってる。そんな弱い部分を他人に見せたりすることが、人と人の距離を一気に縮めることもある。でも、愚痴は吐き出すだけ、という機能しか持ち合わせていない。吐き出しておしまい。それで以上。そういう苦痛や痛み、疲れを外に吐き出すための行いだと思う。

だけど、愚痴や弱音をいうことで、そこから何か状況が改善することを期待しているようなものは、きつい。これは相手も、きつい。そういう思惑が混じった瞬間に愚痴とか弱みは吐息のようなものから妬みや嫉妬のようなものに変わる。にんげんは生身のものだから、弱くて当たり前だし、愚痴や弱音は言う方も聞く方もその場限りの軽いため息のようなもので終わらせたい。

うまく言えないけど、そんなことを思った4月1日の夕刻だった。これでおしまい。さあ、カメラと過ごす明日へ。仲間とのスポーツ観戦もたのしみだ。