無印良品の「地球の色」、好きだな。

image

街を歩いていてふと遭遇した気持ちのいいポスター。見てみると無印良品の広告で「地球の色」というコピーだった。うちに帰ってから無印良品のホームページで調べてみると、気持ちのいい写真と、こんなメッセージが紹介されていた。

“もし人間がいなかったら、地球はどうなっているのでしょうか。その見事な事例が、圧倒的な自然景観として広がっている場所があります。1万3千余の島々からなるインドネシア。その東方「ラジャ・アンパット諸島」は、コンドルのようなかたちをしたニューギニア島のくちばしの先、太平洋とインド洋が混じりあう海域で、海洋生物の多様性が世界一と言われている場所です。海中から群生キノコのように突起した島々も絶景ですが、島の周囲の浅い海に潜ると、思わず息を飲む珊瑚礁の光景が広がっています。写真は、海、陸、空をひとつながりの地球の情景として捉えたものです。まるで太古の時代、人類が生まれる前のような景色。根源的な環境は生命のせめぎあいから生み出されていることが直感できる場所です。無印良品はこの風景を写真にすることを試みました。お手本は常に自然界だからです。無印良品の色は必ずしもベージュやグレーではありません。天然素材を見つめ続け、せめぎあう生命がおりなす地球の色でありたいと考えています。”

いいな。無条件にいいなと思った。そして、写真もいいけどその思想がすごく気持ちいいと思った。僕の写真や思想はとてもそんなレベルにはないけれど、週末にD750を持って緑の中へ分け入っていくのはそんな色を探しに行っているところもある。そんな気づきでもあった。無印良品、こんど寄ってみようかな。もちろん何度も行ったことのあるお店だけど、少し違う気持ちで再会できそうな気がする。

ファインダーをのぞいてシャッターをきるあの間は、他のなにものにも似ていない。

image

たとえば陽が落ちてくる直前だったり、撮りたい列車がやってくるのを待つ間とか、数分間ファインダーを何度ものぞきながらシャッターチャンスを待つ間というものがある。静かな場所だとほんとにこの数分間は神経がピンと張った厳かさというか、いや、なのにとてもゆるりとリラックスした気分でもあったり、僕はこの時間がとても好きだし、心地いい。この感覚はなんだろうと。たとえば釣り人が釣り糸をたらして待つ間とかが似ているのかなとか思うけど、僕は釣りはほとんど経験がないからそこはよくわからない。でも思いつくのは釣りくらいで、それくらい僕の人生のなかでファインダーをのぞいてシャッターをきるあの間は他では味わえない独特の間だ。カメラという機械と向き合っているのだけど、その先に眺めているのは一瞬の光景。たぶん、この両者のマッチングが他では味わえない時間を作り出しているのだろうと思う。GRで撮る時も似たような感覚はなくは無いけど、ファインダーをのぞくという点でいえば、僕の持ち合わせのカメラでいえばD750とP900の時だけの貴重な時間だ。以前のブログにも書いたことがあるんだけど、カメラを持とうと思ったきっかけのひとつにオリンパスPENのTVCMがあって、僕が”そういう間”に惹かれるのはその影響もあるかもしれない。ゴールデンウィークまであと少し。僕の中には数日間仕事が休みになるという感覚より、こうした「間」を幾度か味わえるかもしれないという期待が大きかったりする。あと少しだね、みんなそれぞれの「間」を楽しむ時間まで。

懐かしい友人が教えてくれるのは、過去ばかりじゃない。

image

懐かしい友人というか同僚というか同志というか知人に会った。たまに道ですれ違うことはあったけど、きちんと向き合って話をするのは十数年ぶりである。お互い歳をとったななどと話しながら、お互い今があるのは当時の苦労の数々のおかげだと盛り上がる。でも過去は過去、その話自体からは何か新しいものが生まれるわけじゃないんだけど、お互い十数年それなりに歳を重ねているから、当時のことを話しつつも、当時膝詰めで話していたものとは少し違うニュアンスの解釈が混じる。たぶん、昔話をしつつもお互いがお互いの明日に何かしら参考になればというような思いを込めて会話し合っていることに気づく。歳をとるとはそういうことなんだなと。僕は過去を振り返ることは楽しくはあるけど未来はない、みたいに思ってたところがあるんだけど、少し印象が変わったかもしれない。近ごろ行動範囲とか交際範囲が凝り固まってるなと感じたら、少し古い友人に会いに行ってみてはどうだろう。未来の話を。

モノクロ撮影は、GRかiPhoneアプリ”Vint B&W”で。

image

D5300を持ってた頃は一眼レフでもモノクロで撮ることは少なくなかったけど、D750に変えてからは、一眼レフではほぼカラーオンリーになった。うまく言えないけど、一眼レフのレンズやファインダーを通してみる記憶は、できれば見たままの光景を残したいみたいなのがあるから。

一方、僕がモノクロで撮る時はほとんどがRICOH GRか、iPhoneのアプリ”Vint B&W”だ。平日のスナップは雑多な空気の中にいるせいか、目の前の光景がカラーでも見た目の雰囲気はモノクロのほうが近くなる。流れている時間感覚がそうさせるのだと思う。GRを持っている時は基本GRで撮るけど、GRを持っていない時はiPhoneで。モノクロで撮りたい気分は変わらないから、撮った後でモノクロに加工するのではなくて、最初からモノクロ写真専用アプリで撮ることが多い。僕は一眼レフでもGRでもレタッチはしないから、iPhoneでも撮る前のほうが手の入れどころだ。このVinr B&Wは使い始めてかなり長い。モノクロアプリはいろいろあるけど、長年使い続けていることもあって、この質感がしっくりくる。Vintとはビンテージからきているのかな。写真の質感がどこかノスタルジーな感じを持っているところも気に入っている。目の前の景色をできるだけリアルに表現したい思いはあるけど、それは景観よりも空気感を近づけることが僕の中のリアリティ。その意味では生っぽい写真を撮ることが目的ではなくて、そこに立ち込める空気感を記憶することが目的だから、こんなようなチョイスになる。D750、GR、P900、P340、そしてiPhone。いつのまにかそれぞれに僕のクセがでる。僕はひとりなのに、おもしろいよね。

やっぱGRレンズ好きだ。

image

平日に入り、GRな日々が始まっている。辺りに色は多いけど、気分としてはモノクロだ。モノクロで色の世界の濃淡を繊細にして世界を見たときに、このGRレンズは毎度新鮮な驚きを提供してくれる。街を広角で写し撮った時もその細かな描写に関心するが、こうしてシンプルな植物を撮った時も小さな世界を正確に描く力に度々驚かされる。もうすぐゴールデンウィーク。生命力のある景色を記憶するには絶好の季節だ。

量を通過したひとは強い。めげないという才能について。

image

これはカメラや写真の話でもあるけど、もっと幅広い、ひととして根源的なことかもしれない。ふだんモノクロ写真ばかりを撮るひとがたまにカラーの写真を撮られるので、ここはカラーにしようと思う境界線スイッチみたいなのがあれば教えてほしいと話しかけてみた。すると「どういう色が黒になるかが分かるから、黒で表現しきれない時はカラーで撮る」といったニャアンスのことを教えてくれた。なるほど。この場合でいえば、僕は全然その目はない。モノクロだとどの色が黒くなるかはざっくり言って撮ってみないとわからない。その人は日常においても撮ってる数が違うと思ってたから、あらためて量が裏打ちする説得力とその体に染み込んだ感覚みたいなのを感じた。

仕事においていえばこういうことの連続だ。企画を考える量、現場に足を運ぶ量、アイデアを紙にする量、ひとに取材する量、試作品を作る量、バリエーションを試す量。量をこなすこと自体はプロセスだけど、この量を通して得るものの大きさは計り知れない。膨大な失敗作をも含めて、まずそのへんのひとが突っ込むであろうレベルのことはぜんぶ通過してるみたいなとこあるから、大体において瞬時にその問いに答えられる。そこに仮に正解が生まれていない状態だったとしても、そのひとには正解を生み出す可能性みたいなものをビンビン感じる。それはつまり、ちょっとやそっとでは折れない自信を感じるから。量とはめげない力の証であり、めげないかぎり、ひとは後退はしない。コツコツと、ちょっと呆れられるくらい何度も何度でも。自戒をこめて。

日曜日の夜は、撮りためた写真を眺めながらゆっくり過ごす。

image

日曜日の夜になるとすこし残念な気持ちになるのは子どもの頃から変わらない。日曜日の夕刻あたりから、あぁ金曜日の夜からやり直したい、なんて思ったりしてね。夏休みの残り一日とかのアノ感情と一緒だよね。別に仕事は嫌いじゃないんだけど、まあ休みの最終日というのはどこか無条件反射的に物悲しいもんです。そういう時は心を静かにして撮りためた写真を見る。音楽もかけずに、静かな部屋でひとり。カメラのテクニックを考えたり、その時の音を思い出したり、ふとアノ頃を思い出したり、少し未来を考えたり、いろいろ。思考があちこちに浮遊するような感覚が気持ちいい。もうすぐ22時。いちばん静まり返る時間。何かの折り返し地点のような時間。

カメラを持つことは、もう一人のじぶんを持つこと。第400話

image

ブログを始めてこのポストでちょうど400話になった。飽きっぽいじぶんがここまで続けられていることを褒めてあげたいし、ここまで持続力のあるじぶんに少し驚いている。僕のブログ「記憶カメラ」は僕らしい日常の記憶だから、書いていることは特にジャンルを絞ってもいないし、驚くようなニュースがあるわけでもない。それでも、日々こうして更新が続けられるのは、やはりカメラで写真を撮ることがベースになっているから。撮る、書くそしてまた撮る、書く。この繰り返し。思考の筋トレみたいなものだろうか。TwitterやFacebook、Instagramはフロー、どんどん流れていくからなんというかそこに乗せる言葉もピッチの早いものになる。良くも悪くもリアルタイムなその場限りの僕の思考。対してブログはストック、たぶん僕がここに書いていることは僕の人生観みたいなもので時間が経ってもほぼ変わらないであろうことを書いている意識がある。カメラというのは僕にとってどういう存在なのか。まだ模索中だし、その先に答えがあるのかどうかも分からないけど、今の時点でたしかに言えるのは、カメラを持つまでの僕とは違うもう一人のじぶん、あるいはカメラを持った時はふだんのじぶんとは少し異なる思考が動き出すじぶんがいる、ということ。ひとは誰でもセンシティブでクリエイティブな部分を持ち合わせている。そういう部分をカメラは滲み出してくれる。人間だからだらしない部分も多いのだけど、カメラを持つと凛とするというか、感性のチューニングとでもいえばいいだろうか。僕のブログはその軌跡や経過を記憶してるんだろうな。もう400話ともいえるけど、まだ400話とも。これが1000話とか5000話とかまで積み重なればその時は振り返りも少し楽しみかな。さて、明日の僕は何をここに書くのだろう。

湿り気のある朝だけど、週末だけのシャッター音が聴きたくて。

image

おはよう。今朝はシャッター音について。きのう他の人のブログを見ていたら、D750ともう一台”D810″を持ち始めたとブログで紹介されてた。いろいろ理由はあるのだけど、いちばんの理由は「シャッター音の静かさ」。これはもう本当にそうで、僕もD750を手に入れる際、D810とも触り比べてみた。性能的にはいろいろ差はあるんだけど、構えた時の印象としてはグリップの深さ、重さ以上に、シャッターを切った時にこの二台の個性の差がすごく体に伝わってくる。D750は「カシャン!」と乾いた元気な音を放つけど、D810は「クシュ」と上品な音を奏でる。これだけ違うとミラーショックもずいぶん違うんじゃないか、それくらいカメラ屋の店内では差を感じた。一眼レフはシャッター音と共に生きているカメラだから、撮る人のシチュエーションによってはすごくこだわる部分でもある。自然の中で動物を撮る、静かな屋内でカメラを意識させず撮る、みたいなシチュエーションならシャッター音は響かせないほうがいいから。僕も最初はこのシャッター音の差が2台の性能の差の象徴みたいに思ったけど、今ではD750の少々元気すぎるシャッター音がとても心地いい。慣れといえばそうだけど、もう少し踏み込んでいうとシャッター音フェチなくらいになっている笑。これはもう何だろう、クルマのエンジン音みたいなもんかなあ。ある程度、機械が駆動している音みたいなのを感じながら操縦している歓びみたいなものを僕はたのしみたいタイプなのかもしれない。このシャッター音を聴けるのは僕の生活の中では週末だけ。だから、少々の雨ならこうして一眼レフを連れ出す。僕の週末は一眼レフで撮り貯めするんじゃなくて、シャッター音を聴き貯めしているのかもしれない。そうすると生きかえるから。

レンズが撮るわけじゃない、僕が撮る。

image

これもきょうの気づき。ある人がTwitterで「レンズなんかどうでもいいと冷めてみている自分がいる」的なことをつぶやかれてた。でもこの方はレンズは本来大好きで、そういう意味では誰よりもレンズを愛している一人でもある。そんな方がどうしてふとレンズなんかどうでもいい、というニュアンスの言葉を発したか。それは、いいなと思う写真を見つけた時にレンズ情報のことを気にしてなんかいない自分に気がついた、という趣旨のツイートを後でされていた。なにかすごく分かる気がした。もしくは分かろうとしているじぶんがいた。

僕はカメラを持ち出すときはその日のレンズをあれこれ考えながら選ぶ。マクロ、単焦点、標準ズーム、中望遠、超望遠それぞれあるから一応迷う。その日の天候とか撮りたいシチュエーションをイメージして選ぶ。でも選ぶのは一本だけ。旅行の時は二本持っていったことはあるけど、ふだんは完全にD750+一本のレンズだけになった。カメラバッグは持つけど、予備のレンズを入れるというより、もしもの天候の時の雨避けに。一本しかレンズを持たないから、撮り始めたら完全にレンズのことは頭から離れる。それにそもそも僕が持っているレンズはどれも高価ではないし、仮にレンズが高価だとしても僕にはその性能を最大限引き出す知識もない。そういう意味では本当にアマチュアのさらにアマチュアだから、プロっぽい写真を撮ろうという欲もない、たぶん。僕の中の写真は良くも悪くも精巧な記録ではなくて、僕の中のエモーショナルな記憶なんだと思う。とはいえ、それは無我夢中で撮っている時の意識で、それ以外の時は僕も日頃からレンズのことはいろいろと気にはしてるんだけどね笑。でも、そのある人のツイートのおかげでまたひとつ、僕の中でぼんやりしていたことが少し鮮明になった気がする。僕の写真は、レンズが撮っているんじゃなくて、僕が撮っている。