目を凝らしたり、耳を澄ませたり。

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ものすごく雑音の多い世の中だから。単に騒々しい音や色が多いというだけじゃなくて、情報が乱反射しまくっているという意味でも。でも、だからといってその騒々しさに埋もれないようにさらに大声で叫ぶ感じは何か違う。どちらかというと、その騒々しさに埋もれて見過ごしてしまいそうな小さなモノ・コトに目を向け、耳を傾けることのほうがなにか本質的なものを呼吸できる気がする。時代がそうなのか、僕の今の感受性がそうなのか。むずかしいけど、そんなことを近ごろ考えている。

カメラは撮るモノだけど、眺めるモノとしても相当たのしい。

カメラをやる人のほとんどは、写真を撮ることと同じぐらいカメラを眺めるのが好きなんじゃないかと思っている。少なくとも僕はそう。カメラのあの道具感のあるフォルムを見ていたら実にワクワクする。男だからかなあ。じぶんのカメラも毎度使うたびに被写体と同じくらい眺めている気がするし、InstagramやTwitter、このブログにも何度となくじぶんのカメラをアップしている。毎回同じカメラなのに角度を変えたり、ポイントを変えたり笑。他の人から見たらいつもの同じカメラだから飽き飽きされているかもしれないけど。

眺めるということで言えば最新スペックなんていらないし、むしろ少しビンテージ感のあるカメラの方が味がある。かたや、最新カメラだってハイテク機器特有の細部が究極的に詰められていったなんとも言えない美しさもある。写真はD500。通りがかりに数分だけどしばらく見惚れていた。隣にはD5や高額レンズなんかもあって、ライティングの妙もあって本当に神々しいという言葉がぴったりくる様子だった。

そう、じぶんのカメラを眺めるのがたのしいだけじゃなくて、他の人がいつも愛用しているカメラなんかをSNSで見かけるのも実にたのしい。外食している時のテーブルの上に置かれたカメラたち、つまりこのカメラたちを眺めながら食事をとっているんだなあと思うと、こちらまでニンマリしてしまう。

カメラは撮るモノだけど、その佇まいにこれたけ魅了されるのは、やっぱり作り手の愛や機能美に対する究極のこだわりが、そこにただならぬ気配を生み出しているんだと思う。カメラは眺めるモノでもある。なんとも素敵な世界に僕らは生きている。

来週には見られない、と思うから惹かれるんだろうな。

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家路にて。なんでもない道の街灯にポツンと照らされた桜に吸い寄せられる。鞄の中のGRを取り出して、静かな住宅街の片隅でひとり、桜を見上げてシャッターを押す。漆黒の闇の中に僕と桜だけ。どうだろう、満開な桜をたのしめるのは今週末あたりまでだろうな。そう思うと、ここ数日もう何枚も撮った桜の写真だけど、またこうして写真に収めている。みんなが連日溢れるように桜の花を撮っているのは、目の前の桜があまりに美しいというのもあるけど、たぶん来週にはもうこの艶やかな光景は撮れないんだろうな、と思いに無性にかられてシャッターを切っているんだと思う。永遠は美しいけど、一瞬の儚いものはもっと美しい。

はじめて望遠ズームをのぞいた時の軽い衝撃。

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過去の写真をたどると、たぶん望遠ズームレンズを購入した次の日の朝に撮ったであろう写真が出てきた。桜が咲いてるから、一年前の今頃の季節だと思う。

購入したのはNIKKORレンズの中でも最も手頃な価格のフルサイズ用70-300mm。当時の僕のカメラはAPS-C機のNikon D5300だったから、105-450mmの高倍率ズームだったともいえる。

もともとは息子のサッカーの練習や試合を撮りたくて追加したレンズで、購入した時はサッカー以外の使い方はイメージはなくて、一年に数度しか使わないだろうなみたいな印象しかなかった。ふだんは50mm単焦点にハマってる時期でもあったから、なおさら。でも購入したての70-300mmを試してみたくて、何を撮るというイメージもなくいつもの通り、土曜日の朝に散歩カメラに出かけてみた。

たまたま桜の木の向こうに鳥が見えたから、レンズを向けてみたんだけど、最初にピントを合わせた時のファインダーの中に浮かび上がった絵には驚いたなあ。それまでは18-140mmまでしかズームを使ったことがなかったんだけど、最大450mmのズームの世界は、「なにこれ、なにこの神の目線!」と、一人で声が出るくらいだった記憶がある。よく空高くから撮った絵を神の目線みたいに言うけど、このファインダーの中に現れた絵も、僕が生きてきて体験したことのない目線というか、本来、人間の肉眼で見ることのない視界に、まさに軽い衝撃を受けた。

今になってみると、こんなズームの写真はとこででも見られるし、カメラをやってる人には当たり前の絵。でも、その当時の僕には、決して大袈裟ではなく、こんな絵が撮れるなんて、カメラの世界はこんな素敵なのかと唖然としたというか、カメラを始めたことの喜びを再確認した。

それ以来、僕のカメラのフィールドワークには俄然70-300mmの出番が増えた。特に鳥を撮るわけじゃない時も、スポーツシーンを撮るわけじゃない時も、僕はこのレンズを装着していることがかなり多い。いまのカメラはD750だから70-300mmの望遠の世界なんだけど、このファインダーの中の、なんというか密度のある絵がとても好きだ。ボケがある世界を撮りたくて一眼レフを始めたようなところもあるから、そういう意味でも単焦点と同じかそれ以上に好んで使っている。

この前の週末にあげたブログの写真がそうだけど、D750に70-300mmをつけると視覚バランス的にもこの望遠ズームレンズがそれほど大きくは感じず、佇まいとしても実に道具感あってかっこもいい。どうだろう、いまはいちばん外に連れ出す機会が多いレンズかもしれない。

その後、2,000mm相当の超望遠ズーム、Nikon Coolpix P900も追加することになるんだけど、それは間違いなくこの300mmとか450mmの世界との出会いがきっかけになっている。僕の手によって撮れる写真は決して凄いものはないんだけど、本人的には毎回実に楽しく、ワクワクしながら望遠で撮れる世界を楽しめている。僕だけの、僕らしい楽しみ方かもしれないけど、それでいいと思ってる。僕にとって、いい写真とは、僕らしい写真のことだから。

脳が複雑なときは、カメラを持って少し歩く。

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ジョブズは大事な商談や決断のときは、いつも外を歩いたらしいね。これは僕もほんとそう思う。歩くことは脳に綺麗な血が巡り始めるというか、変な邪念や嫉妬、打算なんかが消えて、とてもニュートラルな思考になれる。

僕はアイデアを出すことを大事にしているし、いまの立場は決断の時も多い。だから、仕事の合間でも脳が複雑になったり煮詰まってると思ったら、少し外を歩く。ニュートラルなじぶんの思考を確かめるために、歩く。

鞄にはいつもGRが入ってるから、気が向いたら写真も撮る。すると脳が中和されてゆく。じぶんが素直になれたり一度バカになれたりする。そういうことはとても大事だと思う。仕事でも、人生でも。世の中の打合せはすべて外を歩きながらすればいいのにね。そうすると世の中はもっとまともな血がめぐる気がする。

ある日の記憶。鮮明ではない。

過去の写真をさかのぼり眺めるのは退屈しない。僕は写真の保存がうまくないから、iPhoneの中だったり、iCloudの中だったり、近ごろだとGoogle Photoの中だったりまちまちだ。いつか整理したいと思うけど、なかなか手が動かなかったりする。

だから、あ、こんなところにこんな写真があったのか、と思うこともしばしば。この写真もいまのじぶんの写真らしくなくて、ハッと目にとまった。どのカメラで撮ったのか、どんな加工をしたのかもよく覚えていない。でも、鮮明じゃないことがよかったりする。フワフワしたその緩さが脳みその中で何かをゆっくり燻らせる感じがして心地いい。

僕の記憶を記したこのブログ「記憶カメラ」も、記憶という意味では実に緩い。でも、そのいかにも鮮明じゃない感じが僕らしくて、意外と僕という人間の正確な記憶になっているとも言える。記録じゃなくて記憶を選んだ僕のブログ。表現とは実にその人のすべてをさらけ出す。

モノクロのほうが肉眼に近いと思う瞬間。

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夢の中だってモノクロじゃない(僕はそう)のに、ましてや目の前に視界はすべてカラーなのに、なぜモノクロがしっくりくることがあるのはなぜなんだろうね。

モノクロはある意味、実在しない配色の世界。そういう意味じゃフィクションだよね。なのに、モノクロのほうがむしろ目の前の肉眼に近いと思えることがけっこうある。

モノクロはたぶん、カラーの撮影・投影技術ができる前の「完全に完成しきれていない技術」だったんだろうと思うけど、もしいきなりカラー技術が発明されていたとしたら、その後モノクロという写真ジャンルは確立されたであろうか。

それにしてもモノクロ写真といってもその写真の見え方の幅は広い。Twitterのタイムラインに流れてくるモノクロ写真はどれも異なり、受ける印象は実にさまざまだ。でも、そのカメラを向けているであろう現場の空気感は、モノクロのほうが伝わってくる感度が高い。

僕は写真はもちろん、モノクロ写真についてだって全然詳しくないんだけど、この一見シンプルなんだけど沼のように深く吸い込まれるような世界観を、すこし追求してみたいなと思ってる。答えはあるのかな。いろんな人のモノクロ観にも耳を傾けていきたいと思う。

語りあうなら、3人の距離感がいい。

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昨晩は新しい仲間と、少し前からの仲間と、僕の3人で食事を共にした。昼食も3人だったかな。僕は語りあう時は「3人」という単位が好きだ。意識していないようで、でも割とそうなるような場をセットしている。

2人で語るとなると、少し重い。相手もたぶん僕に対してじぶんをつくる。僕も相手へ過剰にがんばろうとする。かといって4人以上になると、どうしても場が賑わいすぎて、目の前の人の素顔を知ろうとする感覚が薄れる。適度に濃く相手と向き合えて、でも少し引いて相手を眺められる、そんなベストな場の組み合わせが、僕の中の「3人」だ。

春になるとまた新しい出会いがいくつかはじまる。たぶん僕は3人でまた新しい語らいをしていると思う。コミュニケーションは楽しくもむずかしいことだったりするけど、この3人という組み合わせが、いろいろ僕を身軽に、そして人に向き合う余裕みたいなものを与えてくれる。

亡き王女のためのパヴァーヌを歌い上げてしまう、平原綾香の凄さ。

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彼女の凄さはどこから来るのだろうか。ピアノやクラシックをやる人にはおなじみのラヴェル作のピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」。この誰がどう聞いてもピアノソロの原曲を、平原綾香は歌詞をのせて見事に歌いあげる。最初に聞いたときは驚いた。あのピアノ曲を愛してやまない人は多いと思うけど、どんなに愛していてもまさかその曲に歌詞をつけて歌おうという発想がまず浮かばないと思う。それを彼女はやってのける。それも恐ろしく静かに情熱的に。

僕は以前、彼女が新曲をレコーディングする時のドキュメント映像を見たことがあるんだけど、彼女の繰り返し何度もその歌の細部を詰め続け、じぶんにOKを出さない執念のような姿を見た記憶がある。彼女は非凡な才能の持ち主かもしれないけど、天才ではなくて尋常じゃないレベルの努力家だと思った。大好きな歌なのに、あまりに愛するために完璧に歌いあげるまでもがき続ける様子は、歌姫の印象を大きく裏切る驚きがあった。

僕はApple Musicで平原綾香が歌いあげる「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聞いているけど、YouTubeとかにも映像はあるのかな。ぜひ、原曲のピアノ曲と聴き比べてほしい。フジ子・ヘミングが弾くピアノ曲なども息ができないほど気持ちを持っていかれるけど、平原綾香が歌いあげる姿もまた衝撃がある。どこまで追求し続けたら人間はこの域に到達するのか。そういう音楽を超えた感動がある。

じぶんの中のモノクロ曜日がはじまる。

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おはよう。色つきの週末が終わって、また平日の5日間がはじまる。長いようだけど5日間しかないんだね。僕は大人数のチームと日々仕事をしてるんだけど、一人ひとりとコミュニケーションとってたらほんとあっという間にマッハで金曜日がやってくるんだよね。刻々と時を刻む感じが僕の中ではいかにもモノクロ的。静かに、でもリアルに動く日常のリズムにモノクロはよく似合う。きょうから新しいメンバーもまた一人増えるし、花見ならぬ人見の夜になりそうだ。というわけで、おはよう、モノクロ曜日。