写真とは

都市を撮るひと、花を撮るひと、海を撮るひと、人を撮るひと。

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写真の楽しみ方はひとそれぞれ。色を楽しんでそうなひと、かたち(デザイン)を楽しんでそうなひと、偶然性を楽しんでそうなひと、動くものを捉える難解さを楽しんでそうなひと、あくまで僕がそう思うだけだから本当にそうかは分からないし、もっと実際は奥深い撮る楽しさがあるのだと思う。僕はわりと何を撮るかというより、こういうどう撮るかみたいなことを楽しめるタチなのかもしれない。

でも、写真を本格的に楽しむ多くのひとは”何を撮るか”というファインダーの向こう側の被写体、その主役にこだわる。都会のストリートを撮るひと、モデルのポートレートを撮るひと、朽ちた造形を撮るひと、肉眼では捉えきれない自然の息吹を撮るひと。そうしたひとたちは、カメラ=被写体もしくはシーンが一体となって体や思考に染み渡ってるから、もし目の前にいつもの光景がなくなったら思考停止になるのかもしれない。

たまたまTwitterでやりとりしてくれる方が、そんな思考停止になった時の経緯を少し教えてくれた。東京のストリートを撮り続けていた暮らしから、地方へのUIターン。カメラが真の意味で日常の一部になっていたからこそのエピソードだなと思った。(勝手にとりあげてごめんなさい)

僕の場合もふだんは地方をホームベースに生活している。仕事場はそれなりに街中ではあるけど、自宅はずいぶんと山の方へ離れた郊外。オンとオフがわりと変わり感のある環境かな。そして、たまに東京を行き来する生活。移動している距離からすると慌ただしくもあるけど、このリズムが僕にはちょうどいい。

何か明快な被写体を撮っているというより、そうやって僕の目の前を流れる時間や空気感をGRで記憶している感覚だ。だから、被写体に困るということはない。いや、正確にいうと被写体という主役、何を撮りたいかという意思みたいなものも希薄かもしれない。だから僕の写真は強さとか主張が無いのだろうとも思う。僕は何を撮っているのか。撮ってるというより記憶なんだろうな、やっぱり。

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