Leica M3

半世紀も前の機械式カメラになぜこうも魅せられるのか。

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今週もカメラ好きのTwitterの人たちの中にはNikon FM2を手にした人や、ブロニカS2を手にした人がいて、そのよろこびもヒシヒシと伝わってきて、あゝいいなと思ったり。僕にしてもNikon FEでフィルムカメラを始めて以来、じぶんの想像を超えてフィルムと機械式カメラに魅了されていく様子に驚いたり。考えてみると不思議だよね。これだけハイテクが加速する世の中で、なぜにこれほどまでローテクなものに惹かれるのか。

なぜそんなことを考えたかというと、いま僕はiPhoneの画面をタッチしながらこのブログを書いているけど、スクリーンの上に指をフリックしても滑らせて書く行為は手の感触も無音というか、いわゆる手応えやブレみたいなものが一切ない。それはスマートとも言えるけど、なんというか実に無機質な感じだ。一方、機械式(的)カメラは違う。どうかしたら壊れるんじゃないかというレバーや部品のたてつけにどこか隙がある。確かな手ごたえではあるけど、そこにハイテク弱さみたいなものも垣間見せる揺らぎのようなもの。シャッター音にしても電子音とは異なる、もっと人間くさいような鳴き声のような余韻がある。そういう無機質の真逆をいくような感覚が、たぶん僕を魅了するんだと思う。うまく言えないけど、”不確かな確かさ”みたいなものだろうか。

極端にノスタルジックな方向を良しとするわけではないけど、これだけ世の中がハイテクである種無機質なものに囲まれると、生身の人間はバランスとしてローテクでアナログ、人間くさいものを求めるのもまた必然のような気がする。僕は最近、フィルムのあの独特の匂いも好きで、フィルム交換がむしろ好きになっている。視覚や触覚、聴覚だけじゃなくて、臭覚もまた刺激を受けてるんだろうな。当時としてはハイテクだったんだろうけど、そのプロダクトのフォルムにもデジタルでは描けないような曲線が入り混じる心地よさを感じる。そんな要素が実にふんだんに凝縮されているからこそ、僕らはフィルムカメラに魅せられ、その完璧とは思えないローテク機器から想像を裏切るようなきちんとした写真が撮れてしまうところに驚嘆し、当時の製品開発技術力の高さに唸り、またその古き良きカメラとフィルムという世界にハマってゆく。

デジタルの隆盛でやがて消滅するんじゃないかと言われるフィルム産業ではあるけど、僕はむしろ「そういうハイテク感覚とバランスをとり続けるために、フィルムと機械式カメラは存在し続けるんじゃないか」と思い始めている。そのコストのほうはこの先どうなるかは分からないけど、どんなに世の中がハイテク化しても、人間は生身の存在であり続けるとするならば、これからこのフィルムカメラが果たす役割はもっと高まるかもしれないと。音楽もそういうものに近いかな。電子音で楽器の音色は奏でられるかもしれないけど、やっぱりアコースティックな本物の音にはかなわない。人間はそういう感覚の違いを本能的に見極めるからね。そんなことを考えながら、古き良きカメラたちの手触りを確かめ、フィルムをつめてそろそろ出かけようとする日曜日。そう、世の中は万物すべて、光と影、明と暗、相対するもの同士のバランスの中で奇跡的に形成されているから。

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