フィルムの鮮明じゃない感じが、おぼろげな記憶と近いんだ。

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この写真は7月の終わりに息子のキャンプファイヤー前の薄暮をFUJI FILM Natura1600で撮ったもの。カメラは絞り優先オートで撮れるNikon FEに50mm/f1.8のレンズで、たぶんのこの写真は暗くなる前だから感度800の絞り開放で撮ったんじゃないかな。この後、夜のキャンプファイヤーも鮮明ではなかったけど炎の薄明かりでちゃんと撮れてたから、やっぱり高感度フィルムのNatura1600はやるなあと思った。

で、その”鮮明ではない”という話なんだけど、Natura1600で撮ったものは特に粒状感があるし、写真として綺麗かと言われれば綺麗ではない。でも、記憶としてはとても綺麗なんだ。鮮明であることは、ある種、記憶とは正反対なのかもしれない。フィルムで撮った写真が好きなのは、よくその風合いという言葉が持ち出されるけど、もう少し正確に言えば「その鮮明でない様子が、おぼろげな記憶とむしろ近い」ということにひとは惹かれるんじゃないかなと。いま目の前の光景を画像としてシェアするなら鮮明な写真(画像)でいいんだけど、少し過去をさかのぼるとなると、それは時間をたどり記憶を呼び起こす行為で、それは鮮明すぎるとちょっと脳とギャップを起こす。そんな気がした。

理詰めで書くとそういうことなんだけど、ふだん僕らはそんな複雑なことを考えて写真を見ていないから、そこは感覚的にフィルム写真のよさを解釈してるんだと思う。そう考えると、フィルム写真のよさというのはあまりデジタルの進化やスマホテクノロジーの未来に取って代わられるような存在ではなくて、別物だなと。今を撮って今をシェアするならデジタル、記憶として残すならフィルム、そんな使われ方が自然なんじゃないかと思ったんだけど、どうだろう。

記憶としては鮮明じゃないほうがいい、とすれば、デジイチで撮った息子の写真なんかも、なんというかフィルム変換したくなるというか、そうそう、誰かがやがて、デジタルをフィルム変換してくれる装置を作ってくれるんじゃないかと少し期待してる。フィルムにするのは後退することじゃなくて、記憶化することだからね。

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