そして、50mmのスナップに魅せられてゆく。

Pocket

Leica M-P typ240, Planar T*2/50

いま僕は焦点距離50mmでしか撮っていない。Leica IIIaもM3も、そしてこの写真のM-Pもすべて50mmのレンズだ。ついでに言うと、その他のカメラたちもすべてそう。Nikon F2、F6、FEもつけっぱなしのレンズはすべて50mmだ。これだけ50mmに固執し、50mmで撮り続けていると、さすがに少しだけ50mmの奥深さみたいなものが分かってくる。いや、分かってはいないけど、感じ始めてくる。

50mmは標準レンズとも言われるけど、それは初心者向けの焦点距離ということではなくて、50mmが基本ということ。ここから始まり、広角や中望遠、マクロや超望遠と世界が広がっていくけど、やがてまたここに帰ってくる、そういうレンズの核であり縮図のようなレンズが50mmのレンズなんじゃないかと思う。僕が感じ始めてるのは、この50mmの揺らぎのおもしろさ。引いて撮れば広角的になるし、寄って撮れば中望遠的になる。ほどよい距離で撮ればちょっと油断すると平凡すぎる写真しか撮れない。もう何というか、そのつかみどころのない揺らぎ感は、生身の人間と向き合っているようなところがある。

僕はこれまでスナップといえば多くは28mmのRICOH GRと38mmのKonica C35で撮ってきた。つまり広角寄りのレンズでスパンスパン撮ってきたわけだけど、これがLeica IIIaと50mmのElmarに持ち替えたあたりがら、50mmのむずかしさとおもしろさに翻弄されていくことになる。50mmの素の顔はどれだ?、50mmは広角になり得ないのか?、50mmで寄りのような視線は作れるのか?、まさにいろんなことが撮るたびに次の好奇心を増幅させる。その未知なる50mmの深さや広さを想像すると、もうこの先焦点距離は50mmだけでいい、いや50mmに集中しまくってもきっと正解にはたどり着けないであろうという果てしなさを感じる。

特にブライトフレームのあるレンジファインダーで50mmを撮ると、50mmの外側までファインダーの中に写り込むから、全体の広角の景色の中から50mmで世界を切り取ることの感覚を否応なしに感じさせられる。そして僕の足がズームとなって前後に画角を調整し、動く、撮る、そしてまた動く。誰かが言ってたけど、「50mmに始まり、50mmに終わる」「50mmを制する者が、カメラを制する」、まあ、言い方はともかくとして、50mmから始まるカメラの世界はその後広角や望遠の大海原を彷徨うわけだけど、やがて成長して再び50mmへと戻り、そしてそこでまた50mmの摩訶不思議さに気づき、さらにまた探求の旅に出る。カメラとはその繰り返しなんじゃないかと思う。僕はいま50mmに首ったけだ。こんな難しくて愉快な焦点距離はそうないと思う。世紀の発明だよ、まったく:)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA